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昭和30年(1955)4月6日第14期名人戦の挑戦者になったのは故・藤内金吾八段の一番弟子、大阪・南河内に生まれ「河内の鬼」「日本一の攻め」と呼ばれた名棋士、高島一岐代九段だった。
第1局は5日から東京・渋谷の「初波奈」で始まり、相矢倉になった将棋は中盤から高島が優位に立つも6日終盤、必勝形から大山執念の粘りに合い結局入玉され190手で負けた。シリーズも4勝2敗で大山が防衛、名人位は遥かに厳しい存在と化した。
62年高島はA級のまま、45歳の若さで現役を引退した。
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最高齢の挑戦者

昭和61年(1986)5月8日、第44期名人戦の挑戦者はA級リーグで決着が付かず、3者のプレーオフになるほど最後までもつれ、最後に躍り出たのは加藤一二三九段、米長邦雄十段を破って勝ち上がった大山康晴十五世名人だった。7番勝負は連敗後の第3局を5月7~8日の両日、福岡県飯塚市「鴻の池松柏園ホテル」で迎え穴熊の先番中原誠名人を120手で破った。しかし結局シリーズは大山の白星はこの1勝のみで敗退した。
けれど名人戦史上最高齢で挑戦したことは大いに話題になった。
平成3年(1991)4月5日新手一生、棋界の風雲児。升田幸三実力制第四代名人が心不全で亡くなった。
享年73歳。大正7年広島県双三郡三良坂町で誕生。昭和7年木見金治郎九段門。11年四段、22年八段。

昭和27年第1期王将戦で木村義雄名人を半香に指し込む。さらに31年に第5期では大山康晴名人も指し込み、
香落ち番も勝つ。32年には名人、王将、九段を制し史上初の全タイトル獲得、三冠王となる。タイトル戦登
場23回、獲得は名人2、九段2、王将3の合計7期。棋戦優勝6回。名人・A級には連続32期。48年紫綬褒章授賞
。54年引退した。63年4月実力名人制第四代名人に就く名棋士だった。
昭和33年(1958)3月29日 第7期王将位決定戦7番勝負で大山康晴前名人が升田幸三三冠を破り、半年振りに無冠を脱出した。
28,29の両日、長野市の「犀北館」で行われた第7局、大山が矢倉模様の将棋を123手で勝ち、3年ぶりの王将位復位を果たした。
昭和31年、升田は半香落ちでも大山に圧勝して王将位を奪うと、翌32年の第7期九段戦で塚田正夫から九段を取り、半年後の第16期名人戦でも大山を破って初の三冠王に輝いていた。だが、これを機に升田が退潮、大山の躍進、独走が始まる。
昭和12年(1937)3月22日 読売新聞が主催する、南禅寺の戦い(阪田三吉無段対木村義雄八段戦)に次ぐ京都決戦第2局、阪田三吉対花田長太郎八段戦は嵯峨天竜寺の大書院で始まった。
七段当時、香平で2連勝している花田の▲7六歩に阪田はまたも、しかし木村戦とは逆側の△1四歩で戦いを始める。2日目から花田が発熱、4日目からは阪田も食事がのどを通らぬ状態になり持ち時間30時間の対局は凄絶な戦いになったが、7日目の28日夕刻、寄せの花田が手堅く169手で制した。
本局では封じ手の方法が、その日の終了時に手番になった者が封じるよう変更された。これは現在のタイトル戦にも継承されている。
昭和48年(1978)2月28日、土居市太郎名誉名人が肺がんのため85歳でこの世を去った。
明治20年(1887)11月22日、愛知県三津浜生まれ。明治40年(1907)福岡県門司の将棋大会で関根金次郎十三世名人に見出されて門下に。明治42年に将棋同盟会に参加し大正6年に八段昇段を巡って師と袂を分かったのち自ら将棋同盟社の盟主に納まる。軽快なさばきを得意とする天才的な棋風で、大正中期以降は事実上の第一人者として君臨した。
昭和29年(1954)4月1日、名誉名人の称号をうけ、昭和45年(1970)4月29日棋界初の勲四等瑞宝章を授賞。門下に金子金五郎九段、萩原淳九段、大内延介九段らが居る。

谷川4人目の四冠王

平成4年(1992)2月28日、第41期王将戦で谷川浩司竜王が南芳一王将に挑戦。第5局は山形県天童市の「紅の庄」で谷川は2手目に居飛車党の南に飛車を振ってみろと△3二金と挑発。南はそれに乗って▲5八飛と振ったが結局110手で投了。
谷川は4勝1敗で王将をを奪取。竜王、王位、棋聖と合わせ四冠を達成するとともにグランドスラム、7大タイトルのすべて1度は手中に収めた。四冠は大山康晴十五世名人、中原誠永世十段、米長邦雄永世棋聖に継ぐ史上4人目。
平成元年(1989)2月20日、第38回NHK杯争奪戦(放映3月19日)で18歳の羽生善治五段が4人の名人経験者を相次いで破る偉業を成し遂げた。
3回戦以降、大山康晴十五世名人の中飛車に棒銀から攻めまくり快勝、加藤一二三九段に角換り棒銀から歴史に残る妙手で快勝、谷川浩司名人に横歩取りから終盤逆転勝ちして決勝に進出、中原誠棋聖で前NHK杯保持者と対戦、内容はひねり飛車から緩み無く攻めまくり97手の圧勝だった。
また、その年度(63年度)の記録4部門、対局数80、勝ち数64、勝率8割、連勝18を独占した。
昭和15年(1940)12月10日、東海の若大将と呼ばれた熱血漢、板谷進が名古屋市で生まれた。
昭和33年(1958)3級で父親である板谷四郎九段に入門。
昭和37年(1962)四段、昭和49年(1974)に八段に昇り、同年第1回将棋大賞殊勲賞受賞、第10回日本将棋連盟杯戦で初優勝。
A級は通算7期。昭和53年(1978)から連盟理事を、昭和58年(1983)から常務理事を務めた。
中京棋界の総師的立場でありながらアマチュアの指導・普及に情熱を注ぎ奨励会員や企業・学校の倶楽部合宿用施設「将棋練成道場」の建設をライフワークとしていた。
昭和63年(1988)2月24日、現役のままクモ膜下出血で死去。九段を追贈される。享年47歳の若さであった。弟子に小林健二八段、弟弟子に石田和雄九段がいる。

小菅初の名誉名人

昭和11年(1936)11月6日、棋界発展に貢献した小菅剣之助に、初めて名誉名人の称号が与えられた。
小菅は慶応元年(1865)1月24日に現名古屋市に生まれ、伊藤宗印門下となった。
屈指の実力を誇り宗印に娘婿を懇願されるも米相場で失敗した父の無念を晴らそうと30歳頃から実業界に転じ中部・東海地方で成功する。四日市鉄道、東海電気などの取締役や監査役を務めた。政界にも転じ衆議院議員も務めた。
大正10年(1921)、名人に推されるが固辞、関根金治郎を十三世名人に推挙した。
昭和11年(1936)、神田事件で分裂した棋界の調停役に乗り出し将棋大成会の結成に尽力。
昭和19年(1944)3月6日、79歳で逝去した。
昭和58年(1983)9月20日、中原誠十段が内藤国雄王座に挑戦した第31期王座戦三番勝負第1局はこの日に行われた。
王座戦は第17回から挑戦手合いの方式を採用していたがこの年から公式タイトル戦となった。
三番勝負は中原先勝、内藤が1番返した10月11日の第3局で中原が勝ち衣替えした最初の王座に就いた。そして翌期からは五番勝負となった。

昭和48年(1973)9月20日、第21回王座戦には若手の米長八段、大内八段、内藤八段を破って登場したのは明治44年(1911)生まれのベテラン大野源一八段が挑戦者として中原誠王座に挑むこととなった。
三番勝負第1局は東京・紀尾井町の「福田家」で行われた。中飛車に振った大野は無念にも124手で敗退、第2局は20日、大阪に移って帝塚山の「鉢の木」で行われた。今度は三間に振ったものの第1局同様本戦で見せた冴えが無く中原の前に77手で敗退。奇しくも62歳のタイトル挑戦は夢に期した。
昭和54年(1979)1月14日、遮断機の下りた踏み切り内に立入り、現役のまま事故死。享年67歳。木見金治郎門下。A級は通算16年。

村山聖九段

平成10年(1998)8月8日に進行性膀胱癌のため現役A級のまま死去した。
翌9日付で追贈九段。
昭和44年(1969)6月15日、広島県安芸郡生まれ。昭和58年5級で森信雄六段に入門、昭和61年四段、平成7年八段。
第42期王将戦でタイトル初挑戦するが、谷川浩司王将の前に敗退する。平成9年、全棋士参加棋戦第30回早指し選手権戦で初優勝を飾る。
愛称は「肉丸くん」。「怪童丸」との異名もあり、「終盤は村山に聞け」といわれたほど終盤力に秀でた棋士であった。マンガが好きでアパートはマンガ本で足の踏み場もないほど私生活は数多くのエピソードがある。
伝記小説「聖の青春」はベストセラーになり、村山の人生は何度かテレビにも取り上げられた。
平成2年(1990)8月1日、屋敷伸之七段が、新棋聖に就いた。
19歳の羽生が初タイトル竜王位を奪取してから、わずか8ヶ月後、弱冠18歳11ヶ月の挑戦者・屋敷は大豪中原誠に2勝3敗で惜敗する。しかし、翌第56期棋聖戦の5番勝負に名乗りを上げたのは、またも屋敷だった。シリーズは中原ペースで進むが、第4局で決め損ない流れが変わり、迎えた第5局、優勢に進めた中原に終盤錯覚があり、屋敷の大逆転勝利だった。

金名誉九段逝く

昭和55年(1980)7月23日。大正、昭和に活躍した金易次郎名誉九段が89歳で世を去った。
明治23年(1890)秋田県西馬音内町生まれ。初め井上義雄八段の教えを受け、後に関根金次郎十三世名人の門下となる。
大正13年に八段に昇段。棋風は人柄そのままに堅実な守勢を好み、特に左香落ち番の「3四銀戦法」に造詣が深かった。
昭和29年4月1日、初の名誉九段の称号を受け、昭和45年11月3日、勲四等瑞褒章を受ける。
弟子に高柳敏夫名誉九段、孫弟子には中原誠十六世名人らが居る。
昭和17年(1942)7月13日のこと。
太平洋戦争の最中、第3期名人戦第1局は11日から3日間、東京・小石川の「将棋大成会本部」で行われた。木村義雄名人に挑戦権を得たのは神田辰之助八段。互いに飛車先を突き、神田必勝で終盤を迎えたが既に秒読みとなった神田は「50秒・・55秒・・」たまりかけた木村が「神田君、時間だよ」。
あわてた神田が指した手は大悪手で負けてしまった。神田は木村に対しては烈々たる闘志で立ち向かえ、数々のエピソードが生まれている。これはその一つ。
結局、4連敗した神田はその後、血を吐いて倒れ、翌18年9月6日に帰らぬ人となった。

と金のおそはや

・と金のおそはや

と金を侮ってはいけない。
と金は味方にあれば金と同じ、相手の持ち駒に渡ればただの歩。

三歩あれば

・三歩あれば端に手あり

三歩あれば端に目を向けよう。
有利に導く道が開ける。

歩のない将棋

・歩の無い将棋は負け将棋。

歩を大事にしない将棋は勝てない。

二歩あれば

・二歩あれば継ぎ歩と垂れ歩

二歩あれば手筋の技を用いるべし。
平成22年4月で引退表明した有吉九段。

その有吉は昭和44年(1969)5月28日、名人戦で師匠をカド番に追い込んだ。
第28期名人戦は2勝2敗で拮抗、名人位に王手を掛ける第5局は、4月27、28日に東京・渋谷の「羽沢ガーデン」で行われた。先手の有吉は居飛車、大山は英ちゃん流中飛車となった。激戦となった終盤、敵王に寄せありと自玉を放置して攻めた大山の読みは独善で、弟子有吉にカド番に追い込まれることになった。その後大山は2連勝して名人位を奪取することはなかったが最高の思い出の1勝になった。

平成13年3月5日、史上6人目の1000勝を達成した有吉。
その1000勝の中でも生涯の思い出の局は、師匠・大山康晴十五世名人をカド番に追い込んだ名人戦七番勝負のこの第5局のこの1局であるという。

阪田角損の一局

大正8年(1919)5月17日、阪田三吉、土居市太郎の名局のうち最も名高いのが「阪田角損の一局」と呼ばれる対局。
5月11日、大阪市の報恩院でも催された「木見金治郎七段昇段披露将棋大会」の席上対局として行われた八段同士の平手戦は、後手番阪田が「阪田流向い飛車」で始まった。
1日おいて13日から兵庫県宝塚市の「寿楼」で指し継がれる。が14日、中盤で阪田が角損となり、誰もが阪田の敗勢と予想した。
決着は17日、勝利したのはなんと阪田の大逆転の将棋だった。
昭和54年(1979)5月1日、升田が引退した日だ。
新手一生、将棋の虫、棋界の風雲児・升田幸三実力制第四代名人がその人。
大正7年(1918)広島県三良坂町で誕生。昭和7年(1932)木見金治郎九段門。
昭和11年(1936)四段、昭和22年(1947)八段、昭和33年(1958)九段。
昭和27年(1952)第1期王将戦で木村義雄名人を半香に指し込む。さらに昭和31年(1956)第5期では大山康晴名人を指し込み、香落ち番も勝つ。
昭和32年(1957)には名人、王将、九段を制し史上初の全タイトル獲得、三冠王となった。
 タイトル戦登場23回、獲得は名人2回、九段2回、王将3回の合計7期。
棋戦優勝6回、名人・A級連続32期。昭和48年(1973)紫綬褒章受賞。昭和63年(1988)4月実力制第四代名人の称号を受ける。平成3年(1991)4月5日心不全のため死去。享年73歳。
昭和51年(1976)4月22日、米長邦雄八段が中原誠名人に初挑戦した第35期名人戦七番勝負第2局は4月22、23日、京都市の「栗田山荘」で行われた。中原先勝後の第2局は過去千日手とされた相矢倉の定跡に▲6八銀左の新手を放って見事121手で中原を破り、シリーズを大いに盛り上げ第七局までもつれ込んだ。しかし米長の健闘も空しく結局4勝3敗で中原が防衛した。棋力差はやはり中原が一枚上手であった。
昭和35年(1960)4月14日、第19期名人戦は史上最少、弱冠20歳の加藤一二三八段が大山康晴名人に挑戦した。

第一局はは東京・渋谷の羽沢ガーデンで行われた。先番の加藤が大山得意の矢倉戦に果敢に挑み、翌15日夜115手で見事に初戦を飾った。
14歳で四段に昇段した加藤はノンストップ、18歳でA級八段に昇るという神武以来の天才ぶりを発揮、また20歳で結婚、と同時に名人挑戦を果たすなどすべてが記録破りだった。だが、二局目から4連敗で挑戦は失敗。加藤の「天才」をもってしても再び名人戦に登場するのは13年後、そして名人の座を射止めたのはさらに9年後の昭和57年(1982)のことだった。
昭和40(1965)年、大山康晴名人に山田道美八段が初挑戦した第24期名人戦は4月8・9日の両日、東京・渋谷の羽沢ガーデンで始まった。

先手大山が予想通り中飛車に振れば、山田は研究通り5五位取り戦法で対抗。
このとき山田は指し盛りの31歳打倒大山に燃えており、中飛車対策は万全の研究が用意され、事実、序中盤は指しやすい感じさえあった。だが、しゃれた手に目を奪われ簡単な応手を見落としてしまう。結局、山田は1勝4敗で敗退。名人の研究を超えた強さを肌で実感させられた。

しかしその後、打倒大山にさらに執念を燃やし、2年後の第10期棋聖戦ではついに宿願の棋聖位を奪取する。
慶応4年・明治元年(1868)4月1日、関根金次郎十三世名人が千葉県東葛飾郡二川村(現・関宿町大字宝珠花)に生まれた。
11歳の頃、八代伊藤宗印の門をたたえて専門棋士を志した。以後各地を歩いて修行を積んだ。明治24年(1892)に伊藤宗印に飛車落ちを指してもらい四段を許された。その後関西に出向き阪田三吉と対戦、生涯の好敵手となった。
明治38年(1905)八段昇段。大正10年(1921)1月29日の小野五平十二世名人の死去に伴い、5月8日54歳で十三世名人に就いた。
昭和10年(1935)2年後の引退を表明し実力名人制に踏み切る。戦後の昭和21年(1946)3月12日77歳で逝く。
大正7年(1918)3月21日、広島県双三郡三良坂町で升田幸三実力制名人第4代名人が誕生した。
昭和7年木見金治郎九段門下となり、大山康晴十五世名人は後輩。
昭和11年四段、同22年八段、同33年九段。
昭和27年第一期王将戦で木村義雄名人を半香に指し込む。
更に昭和31年第五期では大山名人を指し込み、香落ち戦も勝った。昭和32年には名人、王将、九段を制し史上初の三冠王になる。
タイトル戦登場23回、獲得は名人2期、九段2期、王将3期の7期。優勝6回。
名人・A級には連続32期。昭和48年紫綬褒章受賞。同54年引退。
昭和63年4月実力制第4代名人の称号を受けた。平成3年4月5日、心不全で死去、享年73歳。

四枚の攻め

四枚の攻めは切れない

攻め駒が四枚以上ある攻めは切れ筋にはならない。

寄せ

寄せは俗手が紛れ無し

寄せは俗な手で迫るのがよい。

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