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大橋宗桂

【1】初代 大橋宗桂。
   弘治二年(1556)生れ。世襲制一世名人。将棋三家の一つである大橋家の祖。
   前名は宗金、宗慶と言ったが、織田信長から宗桂の名を与えられたとも言うが確証はない。
   同じ京都に住む囲碁の本因坊算砂の推挙により、宗桂と算砂はしばしば家康に招かれて将棋を   披露した。慶長十二年(1607)両者によって指された棋譜が現存する最古のものとなる。
   慶長十七年(1612)には徳川家康から五十石五人扶持を賜って初代将棋所となり名人を襲名。
   最古の詰め将棋作品集といわれる「象戯作物」を後陽成天皇に献上した。
   寛永十一年(1634)3月9日没。享年80歳。
   京都・深草の霊光寺にある駒形墓誌の裏面には桂馬の2文字が刻まれている。

【2】五代 大橋宗桂。
   寛永十三年(1636)生れ。世襲制四世名人。三世名人・初代伊藤宗看の子で、幼名は清政。
   前名は伊藤宗銀と言った。
   明暦二年(1656)に大橋家の養子になり、元禄四年(1691)に名人を襲名。
   詰め将棋百番「象戯図式」(俗称/象戯手鑑)を幕府に献上いた。
   残されている日記「五代宗桂記」は当時の将棋家を知る上で貴重な資料となっている。
   正徳三年(1713)没。

【3】九代 大橋宗桂。
  延享元年(1744)生れ。世襲制八世名人。八代大橋宗桂の子で五世名人・二代伊藤宗印の孫。
  七世名人・三代伊藤宗看の甥に当たる。幼名を政秀、前名を大橋印寿と言った。
  寛政元年(1789)に、27年間空位だった名人を襲名。
  「九代宗桂図式」という詰将棋の作品集があり、三代伊藤宗看、伊藤看寿に次ぐ詰将棋の名手。
  寛政十一年(1799)没。


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オニキビ

鬼のように厳しい指し手、または手順のこと。

王手飛車

「王手飛車取り」の略。

江戸時代は「飛車手王手」とも言った。
アマチュア戦では飛車を捕獲出来るので、中盤までにこの手があれば90%の確率で勝てる。
終盤ではワザと掛けさせ、手を遅らせる手もあり飛車を捕獲できても勝勢とはならないことがある。

格言
・目から火の出る王手飛車

温泉気分

対局中、油断している状態のこと。

どうやっても勝てそうな時や、明らかに優勢な時というのは、つい気が緩んでしまうことがある。しかし、実際は自分が思っているほど差がない場合も多い。自分のいいように考えてしまって、温泉気分に浸ったため、少しずつミスを重ねて逆転してしまうということもよくある。

恩返し

本来、恩返しとは人から受けた恩に報いることで、師弟の間では弟子がお世話になった師匠にお返しをすることをいうのだが、将棋界では公式戦で弟子が師匠に勝つことを言う。

師匠を負かすくらい成長し、強くなったという意味がある。

オワ

もう終わりだ、ということ。「終わってる」とも云う。

楽勝と同じ意味で使われる。
この将棋はどうやっても勝ちでしょう、というような状況の時に「オワ」ですねと使う。

面白い

<1>柔軟な発想や特異な発想によって、普通では思いつかないような手を指された時に使う言葉。

「面白い手」とか「面白い作戦」等という。ただし、見た目が派手だとか、いわゆる奇手のような手を指されても「面白い」とは言わない。妙手とも少しニュアンスが違う。その手が決め手になっていたり決定的なダメージを与えているわけではなく、「そういう手もあるのか」と感心するような手のことを言う。

<2>ある局面で、少し有利な感じがする状態のこと。
絶対的ではないが、互角よりは少し良さそうなときに言う。先手が少し優勢で指せそうだという状況の時には「この局面では先手が面白いですね」と言う。

重い

一つの利き筋に駒がダブっていたり、何となくロスがあるような状態のこと。

例えば、歩で取れるのにわざわざ銀を打って取りにいったり、飛車一枚を取りにいくのに金銀三枚を使って取りにいくなど、効率の悪い手を指すことを「重い」と言う。「重い攻め」と言うように攻めるときによく使い、「重い受け」などとはあまり言わない。

御神酒指し

飛車落ち、飛香落ちにおける上手の指し方の一つ。

早めに角交換をして、▲3八金、▲3七銀及び▲78金、▲7七銀というように、金と銀を対称形に組む指し方。この形が御神酒徳利に似ていることからその名が付いた。

小野五平

天保二年(1831)徳島県美馬郡脇町生れ。

推薦制十二世名人。前名は土井喜太郎と言った。
嘉永三年(1850)19歳の時に江戸に出て天野宗歩に弟子入りし、文久元年(1861)に四段。その後、土井五香、尾野五平と名乗ったが明治11年(1878)に八段になり小野五平と改名した。
明治31年(1898)4月、68歳の時に政財界名士に推薦されて名人を襲名した。
大正10年(1921)91歳で没。

鬼殺し

将棋の戦法の一つ。
名前の由来は定かではないが、初手から角道を▲7六歩と開けて、後手が同じく角道を△3四歩と開けた時、先手はここで▲7七桂と跳んで、そのあと▲6六桂と撥ねて行く奇襲戦法
序盤早々から相手を引っ掛けるのが狙いなので、プロ将棋では、指されない戦法

音うけ

将棋の裏面の中央部にある四角いくぼみのこと。
「血溜まり」「ヘソ」などとも言う。

このくぼみは、駒を打ち付けたときの音響効果とか、あるいは、口出しした者の首を切って置くためとか、諸説があるが、実際は木の中心部に溜まった水分を外に逃がし、の反りや割れなどを防止する役目を果している。

お手伝い

自分の指した手が、相手の攻めを加速させてしまい、一緒にその攻めを手伝ってしまうような状態のこと。また、そのような指し手のこと。
自分の指した手を逆用されて、完全に一手近くマイナスになってしまったような時に言う。
プロの場合、一手のマイナスというのは相当なさがついてしまうので、極力お手伝いは避けるよう十分な注意を払う。

御城将棋

江戸幕府の年中行儀の一つ。
寛文年間(1661~1672)に入り、大橋家など将棋三家が徳川家に抱えられ江戸に移住したが、寛永の頃から八代将軍吉宗によって、将軍御前で行われる御城将棋が催しされるようになった。
対局場は、江戸城で公式儀式に用いられる御黒書院が当てられたが、享保元年(1716)には、御城将棋の式日を毎年11月17日と定める布令も出され、幕末まで続いた。
しかし実際には将軍が見学したことは無いようだ。
日本将棋連盟では昭和50年より、この御城将棋にちなみ、11月17日を「将棋の日」と制定した。

押し駒

通称スタンプという。
スタンプ文字ののこと。木地に直接スタンプを押して作った安価な

押し売り

無理矢理、相手に駒を取らせるように仕向けること。

抑え込む

位を取るなどして、相手の攻めを封じ込めること。

送り

王を追い込んでいくための手筋の一つ。

自分の飛車または龍と相手の玉との間に、合駒をされるなどして相手の駒がある場合、その反対側に金などを打って同玉と取らせ、間にある駒を取って王手をかけること。
<1>初代奥野一香。
慶応二年(1866)生れ。駒師。本名・奥野藤五郎。
東京・芝宇田川町で盤駒店を営み、豊島龍山の「錦旗(きんき)」に対し、昇竜斎を改良して錦旗駒として売り出した。
大正10年(1921)没。

<2>二代奥野一香。
明治32年(1899)生れ。駒師。本名・奥野幸次郎。
奥野藤五郎の次男で、ちちの跡目を継いで駒師となり、名人駒師と称された。
昭和14年(1930)没。

置き駒

<1>盤上ののこと。 持ちに対して言う。

<2>床の間や玄関になどに飾る「王将」、「左馬」などと書かれた大きな「飾り」のこと。
日刊ゲンダイ主催の棋戦。平成15年7月をもって終了となった。

成績によって選ばれた40名の棋士による勝抜き戦で、持ち時間は各3時間。勝抜き賞10万円、5人抜き30万円、10人抜き50万円、20人抜き100万円など勝抜き人数によって賞金額がアップした。5人抜きを阻止した棋士は「阻止賞」15万円がでた。

オール学生大会

正式名称は全国オール学生大会将棋選手権戦と言う。
小学生から大学院生までを対象とした学生の棋戦。学校の枠にとらわれずに参加できる大会で、団体戦と個人戦が行われている。
団体戦は日本将棋連盟・川崎市民プラザ主催、全国学生将棋連盟後援で、1チーム5名によるスイス式トーナメント5回戦。
個人戦は日本将棋連盟主催、毎日新聞社・全日本学生将棋連盟後援で、トーナメント戦が行われる。

大山康晴賞

将棋の普及活動や文化振興に長年貢献してきた個人及び団体に対し、その功績を称えて贈られる賞。
個人分野と団体分野があり、毎年個人2名と1団体が選ばれ、普及功労金50万円が贈られる。平成6年に日本将棋連盟創立70周年を記念して制定され、故大山康晴15世名人の夫人・昌子さんの寄付を基金として運営されている。

大山康晴

大将2年生まれ。岡山県倉敷市出身。実力制第3代名人、十五世名人。将棋界の巨星。

昭和27年、29歳で名人になると、18期にわたって名人位を保持したのをはじめ、16年連続してすべてのタイトル戦にタイトル保持者または挑戦者ちして出場した。昭和60年には史上初の四冠王、62年には五冠王となる。  その後日本連盟会長を務めるなど、将棋界の発展に大きく貢献した。
平成4年没。

大盤解説

対局中の勝負について、別室で大きな盤を使って解説すること。

タイトル戦などでは、会場に集まった一般ファンのために大盤解説が行われる。

大橋流

江戸時代に名人の宗家が決めた、将棋盤にを並べる時の作法の一つ。
上位の人が先に王をとり、次に下位の人が玉を取って定位置に置き、その後、左の金、右の金、左の銀、右の銀、左の桂、右の桂、左の香、右の香、角、飛車の順番に並べ次に三段目中央に歩を置き、その歩を挟むように左、右、左、右と外側に向かって交互に並べる。
現代の並べ方としては、この「大橋流」が一般的である。
の並べ方は他に「伊藤流」がある。

大橋分家

江戸時代の将棋三家の一つ。
初代大橋宗与を祖とする。宗与は一世名人・初代大橋宗桂の息子で、寛永十三年(1636)に大橋家から分家し、大橋分家を興した。以後、大橋分家は六世名人・三代大橋宗与、九世名人・六代大橋宗英などに受け継がれた。

大橋宗与

【1】初代 大橋宗与
生年不詳。一世名人・初代宗桂の次男、二世名人・二代大橋宗古の弟で、寛永十二年(1635)に分家し、大橋分家を創設。こうして大橋宗桂を祖とする大橋本家と伊藤宗看を祖とする伊藤家とともに将棋三家の制度が確立した。
慶安元年(1648)没。

【2】三代 大橋宗与
慶安元年(1648)生れ。世襲制六世名人。初代大橋宗桂の曾孫にあたる。
12歳で大橋分家を継ぎ、後に家を京都から江戸に移すことを幕府から命じられる。
享保元年(1716)詰め将棋百番「将棋作物」(俗称/将棋養真図式)を幕府に献上。享保八年(1723)、76歳という高齢で名人を襲名し、大橋分家から初の名人となった。
享保十三年(1728)没。

大橋宗古

二代大橋宗古。
天正四年(1576)生れ。世襲制二世名人。初代大橋宗桂の長男。
宗桂の没後、大橋家を継ぎ、寛永十一年(1634)に名人を襲名。
寛永十三年(1636)に詰将棋百番「象戯図式」(俗称/将棋智実)を幕府に献上、その中で
・二歩の禁止
・打ち歩詰めの禁止
・行き所のない駒の打つことの禁止
・千日手の規則などを成文化している。
承応三年(1654)没。

大橋宗英

九世名人・六代大橋宗英のこと。宝暦六年(1756)生れ。文化六年(1809)没。享年53歳。

大橋分家の五代宗順の庶子(妾の子)で前名を七之助と言った。
八世名人・九代大橋宗桂の没後、寛政十一年(1799)に名人を襲名。
相掛り戦法をはじめ新しい将棋を試み、民間棋界の発展に大きな影響を与えた。

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