カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

カテゴリ


月別アーカイブ


最新トラックバック


最新コメント


訪問者


FC2ブログランキング


まとめ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
昭和51年(1976)4月22日、米長邦雄八段が中原誠名人に初挑戦した第35期名人戦七番勝負第2局は4月22、23日、京都市の「栗田山荘」で行われた。中原先勝後の第2局は過去千日手とされた相矢倉の定跡に▲6八銀左の新手を放って見事121手で中原を破り、シリーズを大いに盛り上げ第七局までもつれ込んだ。しかし米長の健闘も空しく結局4勝3敗で中原が防衛した。棋力差はやはり中原が一枚上手であった。
スポンサーサイト
昭和35年(1960)4月14日、第19期名人戦は史上最少、弱冠20歳の加藤一二三八段が大山康晴名人に挑戦した。

第一局はは東京・渋谷の羽沢ガーデンで行われた。先番の加藤が大山得意の矢倉戦に果敢に挑み、翌15日夜115手で見事に初戦を飾った。
14歳で四段に昇段した加藤はノンストップ、18歳でA級八段に昇るという神武以来の天才ぶりを発揮、また20歳で結婚、と同時に名人挑戦を果たすなどすべてが記録破りだった。だが、二局目から4連敗で挑戦は失敗。加藤の「天才」をもってしても再び名人戦に登場するのは13年後、そして名人の座を射止めたのはさらに9年後の昭和57年(1982)のことだった。
昭和57年(1982)7月31日、加藤一二三十段が中原誠名人に挑戦した第40期名人戦は、1持将棋2千日手と名人戦史上に残る大激闘となり、決着の付く10局目を迎えたのは真夏の7月30~31日だった。
日本将棋連盟特別対局室に盤を挟み、相矢倉に進んだ将棋は終盤まで優劣不明の難局だったが、105手でついに加藤が勝ちきった。八段昇段以来実に25年目の名人獲得だった。
しかし、翌年加藤以来の中学生棋士になった谷川に挑戦され、その地位を奪われるとは、誰が想像したであろうか。

大内、名人逃す

大内、痛恨の大失着で名人を逃したのは昭和50年6月19日(1975)。

大内延介八段が中原誠名人に挑戦した第34期名人戦第7局は6月18,19日に東京・渋谷の「羽沢ガーデン」で行なわれた。
3勝3敗で迎えた大一番は、大内が優勢のまま終盤に入り、9分9厘勝利を握ったかに見えた。
ところが、どう寄せるかという局面になって大失着が飛び出す。局面はもつれ午後10時32分、196手でとうとう持将棋が成立した。流れは当然のように名人側に変り次の第8局で大内は敗れ、念願の名人位を取り逃がしてしまった。悔やんでも悔やみきれない大失着は6月19日のことだった。

実力名人戦始まる

昭和10年6月16日(1935) 東京・丸の内「蚕糸会館」7階、日本間の一室で「名人位決定戦八段リーグ戦」(東京日々、大阪毎日)の開催を飾る花田長太郎八段 対 金子金五郎の対局が6月16,17日に行なわれた。結果は144手で花田が勝った。
初の実力名人の決定方法は土居市太郎八段、大崎熊雄八段、金易二郎八段、木見金治郎八段、花田、木村義雄八段、金子の七人の八段による二回総当たりの特別リーグと普通棋戦の合計得点が一位の棋士を名人とするものだった。
樋口金信は、観戦記で
  「嗚呼、その日は来た!!」とこの歴史的第一号を書き起こしている。

Powered by FC2 Blog
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。