カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

カテゴリ


月別アーカイブ


最新トラックバック


最新コメント


訪問者


FC2ブログランキング


まとめ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
昭和30年(1955)4月6日第14期名人戦の挑戦者になったのは故・藤内金吾八段の一番弟子、大阪・南河内に生まれ「河内の鬼」「日本一の攻め」と呼ばれた名棋士、高島一岐代九段だった。
第1局は5日から東京・渋谷の「初波奈」で始まり、相矢倉になった将棋は中盤から高島が優位に立つも6日終盤、必勝形から大山執念の粘りに合い結局入玉され190手で負けた。シリーズも4勝2敗で大山が防衛、名人位は遥かに厳しい存在と化した。
62年高島はA級のまま、45歳の若さで現役を引退した。
スポンサーサイト
昭和15年(1940)12月10日、東海の若大将と呼ばれた熱血漢、板谷進が名古屋市で生まれた。
昭和33年(1958)3級で父親である板谷四郎九段に入門。
昭和37年(1962)四段、昭和49年(1974)に八段に昇り、同年第1回将棋大賞殊勲賞受賞、第10回日本将棋連盟杯戦で初優勝。
A級は通算7期。昭和53年(1978)から連盟理事を、昭和58年(1983)から常務理事を務めた。
中京棋界の総師的立場でありながらアマチュアの指導・普及に情熱を注ぎ奨励会員や企業・学校の倶楽部合宿用施設「将棋練成道場」の建設をライフワークとしていた。
昭和63年(1988)2月24日、現役のままクモ膜下出血で死去。九段を追贈される。享年47歳の若さであった。弟子に小林健二八段、弟弟子に石田和雄九段がいる。

小菅初の名誉名人

昭和11年(1936)11月6日、棋界発展に貢献した小菅剣之助に、初めて名誉名人の称号が与えられた。
小菅は慶応元年(1865)1月24日に現名古屋市に生まれ、伊藤宗印門下となった。
屈指の実力を誇り宗印に娘婿を懇願されるも米相場で失敗した父の無念を晴らそうと30歳頃から実業界に転じ中部・東海地方で成功する。四日市鉄道、東海電気などの取締役や監査役を務めた。政界にも転じ衆議院議員も務めた。
大正10年(1921)、名人に推されるが固辞、関根金治郎を十三世名人に推挙した。
昭和11年(1936)、神田事件で分裂した棋界の調停役に乗り出し将棋大成会の結成に尽力。
昭和19年(1944)3月6日、79歳で逝去した。

昭和48年(1973)9月20日、第21回王座戦には若手の米長八段、大内八段、内藤八段を破って登場したのは明治44年(1911)生まれのベテラン大野源一八段が挑戦者として中原誠王座に挑むこととなった。
三番勝負第1局は東京・紀尾井町の「福田家」で行われた。中飛車に振った大野は無念にも124手で敗退、第2局は20日、大阪に移って帝塚山の「鉢の木」で行われた。今度は三間に振ったものの第1局同様本戦で見せた冴えが無く中原の前に77手で敗退。奇しくも62歳のタイトル挑戦は夢に期した。
昭和54年(1979)1月14日、遮断機の下りた踏み切り内に立入り、現役のまま事故死。享年67歳。木見金治郎門下。A級は通算16年。

村山聖九段

平成10年(1998)8月8日に進行性膀胱癌のため現役A級のまま死去した。
翌9日付で追贈九段。
昭和44年(1969)6月15日、広島県安芸郡生まれ。昭和58年5級で森信雄六段に入門、昭和61年四段、平成7年八段。
第42期王将戦でタイトル初挑戦するが、谷川浩司王将の前に敗退する。平成9年、全棋士参加棋戦第30回早指し選手権戦で初優勝を飾る。
愛称は「肉丸くん」。「怪童丸」との異名もあり、「終盤は村山に聞け」といわれたほど終盤力に秀でた棋士であった。マンガが好きでアパートはマンガ本で足の踏み場もないほど私生活は数多くのエピソードがある。
伝記小説「聖の青春」はベストセラーになり、村山の人生は何度かテレビにも取り上げられた。
平成22年4月で引退表明した有吉九段。

その有吉は昭和44年(1969)5月28日、名人戦で師匠をカド番に追い込んだ。
第28期名人戦は2勝2敗で拮抗、名人位に王手を掛ける第5局は、4月27、28日に東京・渋谷の「羽沢ガーデン」で行われた。先手の有吉は居飛車、大山は英ちゃん流中飛車となった。激戦となった終盤、敵王に寄せありと自玉を放置して攻めた大山の読みは独善で、弟子有吉にカド番に追い込まれることになった。その後大山は2連勝して名人位を奪取することはなかったが最高の思い出の1勝になった。

平成13年3月5日、史上6人目の1000勝を達成した有吉。
その1000勝の中でも生涯の思い出の局は、師匠・大山康晴十五世名人をカド番に追い込んだ名人戦七番勝負のこの第5局のこの1局であるという。

阪田角損の一局

大正8年(1919)5月17日、阪田三吉、土居市太郎の名局のうち最も名高いのが「阪田角損の一局」と呼ばれる対局。
5月11日、大阪市の報恩院でも催された「木見金治郎七段昇段披露将棋大会」の席上対局として行われた八段同士の平手戦は、後手番阪田が「阪田流向い飛車」で始まった。
1日おいて13日から兵庫県宝塚市の「寿楼」で指し継がれる。が14日、中盤で阪田が角損となり、誰もが阪田の敗勢と予想した。
決着は17日、勝利したのはなんと阪田の大逆転の将棋だった。
昭和40(1965)年、大山康晴名人に山田道美八段が初挑戦した第24期名人戦は4月8・9日の両日、東京・渋谷の羽沢ガーデンで始まった。

先手大山が予想通り中飛車に振れば、山田は研究通り5五位取り戦法で対抗。
このとき山田は指し盛りの31歳打倒大山に燃えており、中飛車対策は万全の研究が用意され、事実、序中盤は指しやすい感じさえあった。だが、しゃれた手に目を奪われ簡単な応手を見落としてしまう。結局、山田は1勝4敗で敗退。名人の研究を超えた強さを肌で実感させられた。

しかしその後、打倒大山にさらに執念を燃やし、2年後の第10期棋聖戦ではついに宿願の棋聖位を奪取する。

角田三男

明治43年(1910)2月2日、鳥取県岸本町で誕生した。
軽妙なひねり飛車戦法「角田流」を編み出し、長く関西本部管理役を務めた。
升田幸三実力制第4代名人、大山康晴15世名人と同じ木見金治郎九段に入門。
昭和9年四段、同23年五段、同29年六段、同48年七段、同60年引退、同年5月6日胃ガンで逝去。
同日付けで八段が追贈された。

二上、棋聖位奪回

昭和56年(1981)1月28日、一度は手にした棋聖位だったが大山、中原の前に4度、5度と屈し復位の叶わなかった二上達也九段が米長邦雄棋聖に挑戦したのは第37期棋聖戦でのこと。
五番勝負は、二上が2勝1敗とリードして第4局を静岡県伊豆山の「美晴荘」で迎えることになった。
先手番二上は居飛車、米長は四間飛車の将棋は、二上の指してが冴え渡り85手の短手数で決着した。
1966年の第8期(大山を3勝1敗で下す)から15年ぶりの返り咲きとなった。この時、49歳であった。
この後、二上は中原、加藤の挑戦を退け計4期棋聖の座に就いている。

クロガネ

平成2年(1990)1月18日、強靭な棋風でクロガネの異名を持つ坂口允彦九段が肝硬変のため死去した。
享年81歳。明治41年12月10日、北海道日高町に生まれ。
昭和2年故花田長太郎九段門、昭和6年四段、同7年五段、同9年六段、同11年七段、同13年八段。
初段から10年で八段は当時異例のスピード昇進だった。
戦後は順位戦第1期のあと、A級のまま昭和22年から3年間チェスに転向で休場し、昭和25年復帰、同26年産経杯戦で優勝。
A級は通算8年、昭和27年から連盟会長も務める。昭和50年九段、同56年勲四等瑞宝章受賞、同年勤続50年棋士として表彰される。昭和60年(1985)4月1日引退。弟子に佐伯昌優九段、孫弟子に中村修九段、北浜健介七段がいる。

悲劇の棋士

悲劇の棋士。森安秀光九段死去。
1993年(平成5年)11月22日。
ミスター四間飛車、鋼鉄のマシュマロ、ダルマ流等の異名を持つ。
教育熱心であり、息子に寄せる期待は相当なもので、その重圧に耐えかねた長男のバット殴打により、終に帰らぬ人となった。享年44歳。存命であれば名人位も奪取できる棋士であった。
昭和24年8月18日、岡山県笠岡市生まれ、昭和37年10級で故・藤内金吾八段に入門。
同43年四段、55年八段、63年九段。
昭和57年、棋王戦でタイトル初挑戦、同58年には第42期棋聖戦で2連敗後、3連勝し初タイトルを獲得。
59年第42期名人戦で谷川浩司に挑戦。60年日本シリーズ優勝。タイトル登場7回、棋戦優勝10回。
A級は通算6期。将棋大賞は49年第1回新人賞。53年勝率第1位賞、技能賞。57年最多対局賞、最多勝利賞、殊勲賞。
59年最多対局賞、殊勲賞を受賞。通算成績712勝469敗。勝率0.603。
第23期王位戦7番勝負は内藤国雄九段が挑戦者となり中原誠王位に初戦は白星スタートとなったものの、2,3局を連敗後、迎えた第4局を博多「山の上ホテル」で行ない珍しく矢倉となり中盤から内藤有利のまま終盤9筋の激しい攻めで一気に寄せ78手で快勝し、その後の5,6局を連勝10年ぶりの復位となった。昭和57年(1982)9月21日のこの日であった。

Powered by FC2 Blog
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。