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まとめ
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昭和23年5月26日(1948)第7期名人戦で塚田正夫名人への挑戦者に名乗り出たのは、高野山の決戦で兄弟子・升田幸三八段に逆転した大山康晴八段だった。
専門家の間では塚田の経験を買う声が高かったが、世評は「高野山の決戦が事実上の名人決定戦」などと囃し立て、弱冠25歳の大山にのる意見が多かった。
7番勝負は4月6日から始まり、塚田3勝2敗で5月26日、第6局を石川県山中温泉「河鹿荘」で迎えた。
後手大山から角交換に進めた将棋は、しかし、塚田がペースを握り、以後も塚田が優勢に運び、最後は詰将棋の名手らしく綺麗に即詰めに切って落とした。
終局137手。塚田の初防衛だった。
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馬方将棋

めくら将棋のこと。

江戸期から明治初期まで使われた。

今では死語となった用語。

将棋好きな按摩が道中、馬に乗りながら、

将棋の好きな馬方と駒も盤も必要ない

くち言葉で将棋を指したことから、

そう言われた。

か、どうかは分からない。

大山9期の新記録

昭和37年5月25日(1962)のこの日、二上達也八段が大山康晴名人に挑戦した第21期名人戦は、大山3連勝で5月24,5の両日、第4局を迎えていた。対局場は静岡県熱海市「石亭」。
大山先手で始まった将棋は、先手の矢倉模様に後手の右玉となるが、先端を開けずに手詰まり状態となる。先手が意表の穴熊に組み、さらに陣を固めるのに対し、後手は打開のチャンスを見送り飛車を動かすのみ。結局この消極策がたたって143手で完敗となった。
4連勝で防衛した大山は、木村14世名人を越える名人位通算9期の新記録を樹立した。

木村復活

昭和24年5月24日 塚田正夫名人と木村義雄前名人との第8期名人戦は、戦後のインフレによる諸事情から、この期に限って5番勝負となった。
3月29日の第1局を皮切りにシリーズは白熱、両雄相譲らず2勝2敗で迎えた第5局は、皇居の「済寧館」での対局となった。24日午後10時に始まった大勝負は翌午前4時2分、塚田が投了し終了。雌伏2年、お城将棋を彷彿させる皇居での対局で、木村は名人復位の偉業を達成する。
44歳のカムバックであった。

大橋宗桂

【1】初代 大橋宗桂。
   弘治二年(1556)生れ。世襲制一世名人。将棋三家の一つである大橋家の祖。
   前名は宗金、宗慶と言ったが、織田信長から宗桂の名を与えられたとも言うが確証はない。
   同じ京都に住む囲碁の本因坊算砂の推挙により、宗桂と算砂はしばしば家康に招かれて将棋を   披露した。慶長十二年(1607)両者によって指された棋譜が現存する最古のものとなる。
   慶長十七年(1612)には徳川家康から五十石五人扶持を賜って初代将棋所となり名人を襲名。
   最古の詰め将棋作品集といわれる「象戯作物」を後陽成天皇に献上した。
   寛永十一年(1634)3月9日没。享年80歳。
   京都・深草の霊光寺にある駒形墓誌の裏面には桂馬の2文字が刻まれている。

【2】五代 大橋宗桂。
   寛永十三年(1636)生れ。世襲制四世名人。三世名人・初代伊藤宗看の子で、幼名は清政。
   前名は伊藤宗銀と言った。
   明暦二年(1656)に大橋家の養子になり、元禄四年(1691)に名人を襲名。
   詰め将棋百番「象戯図式」(俗称/象戯手鑑)を幕府に献上いた。
   残されている日記「五代宗桂記」は当時の将棋家を知る上で貴重な資料となっている。
   正徳三年(1713)没。

【3】九代 大橋宗桂。
  延享元年(1744)生れ。世襲制八世名人。八代大橋宗桂の子で五世名人・二代伊藤宗印の孫。
  七世名人・三代伊藤宗看の甥に当たる。幼名を政秀、前名を大橋印寿と言った。
  寛政元年(1789)に、27年間空位だった名人を襲名。
  「九代宗桂図式」という詰将棋の作品集があり、三代伊藤宗看、伊藤看寿に次ぐ詰将棋の名手。
  寛政十一年(1799)没。



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